胡蝶の夢

適当な記事を置いてあります。いつ削除するかもわかりません。記事はAIによるサポートを受けています。

G008_AIは普遍文法を掘り当てたのか

G検定の勉強をしていると、ときどき試験範囲から大きく脱線します。

今回、引っかかったのは、Transformerと言語モデルの話でした。

ChatGPTのような大規模言語モデルは、人間が学校で習うように、日本語や英語の文法を一つずつ教えられているわけではありません。

大量の文章を学習し、そこまでの文脈に続く可能性の高いトークンを順番に生成します。

かなり単純化すれば、

次に来そうな言葉を予測し続けている

ということになります。

ところが、それだけで、どうしてこれほど自然な文章が書けるのでしょうか。

文法を教えていないのに、文法を使える

言語によって、語順も、主語の扱いも、時制も、名詞や動詞の変化も違います。

それにもかかわらず、大規模言語モデルは、多くの言語でかなり自然な文章を作ります。

もちろん、言語によって能力差はありますし、流暢に見えても意味を取り違えることがあります。

それでも、明示的な文法規則を一つずつ与えられたわけではないモデルが、文法的な文章を作れることは不思議です。

そこで、素人なりに一つの仮説が浮かびました。

全人類が残した膨大な言語データの中には、個々の言語の違いを超えた共通構造が隠れているのではないか。

そしてAIは、大量のデータを学習することで、その構造を掘り当てたのではないか。

このとき思い出したのが、ノーム・チョムスキーの「普遍文法」でした。

私の直感と、チョムスキーの普遍文法は少し違う

私はこれまで、普遍文法を、

世界中の言語の奥底にある共通の土台

くらいに理解していました。

その理解からすると、多言語を一つのモデルで扱える大規模言語モデルは、普遍文法の存在を実証しているようにも見えます。

しかし、少し調べると、チョムスキーの問題意識はそれだけではありませんでした。

中心にあるのは、

人間の子どもが、限られた言語入力から、なぜ複雑な文法を身につけられるのか

という問いです。

子どもは、不完全で限られた会話しか聞いていないのに、教えられていない文まで作れるようになります。

そのため、人間には生まれつき、習得可能な言語の範囲を絞る何らかの能力や制約があるのではないか。

それが、チョムスキー的な普遍文法の重要な部分です。

つまり、私が考えていたのは、

言語データの中に共通構造があるのではないか

という話です。

一方、チョムスキーが問題にしたのは、

人間の脳に、言語を獲得するための生得的な制約があるのではないか

という話です。

似ているようで、同じではありません。

AIはチョムスキーを否定したのか

大規模言語モデルは、人間の子どもとは比較にならないほど大量の文章を学習します。

そのモデルが、明示的な普遍文法を与えられなくても自然な言語を生成できる。

このことから、

生得的な文法規則を想定しなくても、大量のデータと学習能力があれば言語は身につくのではないか

という見方が生まれます。

その意味では、大規模言語モデルは、チョムスキー的な考え方への反証にも見えます。

しかし、チョムスキー側からは別の反論ができます。

人間の言語能力とは、どんな規則でも同じように学べる能力ではない。

人間が自然言語として使う規則と、規則としては一貫していても、人間が決して話さないような人工的な言語とを区別する能力も含むのではないか、という反論です。

たとえば、

  • 文の意味や構造ではなく、左から何番目の単語かだけで変化する

  • 単語数が偶数か奇数かで否定を決める

  • 文を機械的に逆順に並べる

といった規則です。

これらは完全なデタラメではありません。
一貫した規則はあります。

しかし、人間の自然言語には現れにくい。

もしAIが、自然言語だけでなく、こうした「不可能な言語」まで同じように学べるのであれば、AIは人間と同じ言語能力を獲得したのではなく、単に与えられた規則を広く学べる装置なのかもしれません。

ここで、論点が少し変わります。

AIが自然言語を生成できるか

ではなく、

AIは、人間に可能な言語と不可能な言語を、人間と同じように区別するか

が問題になります。

人間の言語能力を説明するモデルであるなら、成功の仕方だけでなく、失敗の仕方まで人間に似ている必要がある。

これは、かなり強い反論です。

それでも、AIは何かを掘り当てている

ただし、この反論によって、私の最初の直感がすべて消えるわけではありません。

AIが人間と同じ普遍文法を持つとは限らない。

それでも、多数の言語を一つのモデルで扱えることは、自然言語の間に、横断的に学習できる共通構造が存在することを示しているように見えます。

ここでは、二つの普遍性を分けた方がよさそうです。

一つは、

人間の脳には、可能な言語を制約する生得的な仕組みがあるのか

という、人間側の普遍性です。

もう一つは、

世界の言語データには、異なる言語をまたいで学習できる共通構造があるのか

という、データ側の普遍性です。

大規模言語モデルが高い能力を示したからといって、前者がそのまま否定されたとは言えません。

AIは、人間の子どもとは、データ量も、身体も、学び方も違います。

一方、後者については、AIの登場によって、これまでとは違う方法で検証できるようになったように思います。

「確率的予測にすぎない」は十分な説明か

大規模言語モデルは、

次に来るトークンを確率的に予測しているだけ

と説明されます。

G検定の入口としては、分かりやすい説明です。

しかし、「だけ」という言葉には注意が必要かもしれません。

次のトークンを高い精度で予測するには、直前の単語だけでは足りません。

文の構造、語句の関係、話題、文脈などを捉えなければ、自然な続きを作れません。

目的が次のトークンの予測であっても、その過程で、モデルの内部に何らかの文法的・意味的な構造が形成される可能性があります。

それを人間と同じ「理解」と呼べるかは別です。

ただ、

確率的に予測しているから、文法を何も捉えていない

とまでは言えないように思います。

試験勉強としては、かなり脱線している

G検定の試験対策として考えると、ここまで深掘りする必要は、おそらくありません。

Transformerでは、Attentionや位置エンコーディング、言語モデルの基本を押さえる方が先です。

正直に言えば、第6章の技術的な仕組みを追っているだけでは、私はかなり眠くなります。

CNN、RNN、LSTM、GRU、Attention、Transformer。

それぞれの違いを整理する必要はありますが、内部構造そのものに強い興味があるわけではありません。

一方、その技術によって、人間の言語とは何かという古い問いが、別の姿で現れてくるとなると、急に面白くなります。

私は、技術そのものより、その技術が人間や社会の理解をどう変えるのかに関心があるのだと思います。

試験までは、第6章については合格点を取るための最低限を押さえる。

そこから生まれた脱線は、こうして別に記録しておく。

そのくらいの距離感でよいのかもしれません。

今のところの考え

大規模言語モデルが多数の言語を扱えることは、チョムスキーの普遍文法をそのまま証明するものではありません。

AIが人間には不可能な人工言語まで学べるのであれば、人間と同じ言語能力を持つ証拠にはならないからです。

しかし、AIの成功は、人間社会が残した膨大な言語データの中に、異なる言語を超えて学習可能な共通構造があることを示しているようにも見えます。

それを普遍文法と呼んでよいのかは分かりません。

少なくとも、今の自分には、

AIは普遍文法を発見したのではなく、「言語に普遍性はあるのか」という問いを、別の場所から掘り当てた

ように見えています。

チョムスキー本人は、大規模言語モデルに批判的です。

それでも、彼が提起した問いの影は、彼とはまったく違う思想から生まれたAIの中に残っている。

このねじれが、今の私にはとても面白く感じられます。

G007_AIは鏡だとして、その鏡は何を映しているのか

前の記事で、AIを「ものすごく作業が速い部下」に例えました。

その比喩は、AIに作業を任せ、出力を確認し、最終的な責任を人間が持つという関係を考えるうえでは、今でも有効だと思っています。

ただ、AIは本当の部下ではありません。

人格も、意識も、経験も、責任感もありません。自然な言葉で応答するからといって、人間のように理解し、考えていると受け取るのは危うい。前の記事では、そんなことを書きました。

では、人格を持たないAIと対話しているとき、私は何と向き合っているのでしょうか。

そこから浮かんできたのが、

AIは鏡なのかもしれない

という比喩でした。

ただし、そう考えた途端に、次の疑問が出てきました。

普通の鏡は、光を反射します。
自分の姿と、その後ろにあるものが、自分の立つ位置から見える形で映ります。

では、AIという鏡は、何を受け取り、何を返しているのでしょうか。

AIは、入力をそのまま反射しているわけではない

ChatGPTに質問すると、文章で答えが返ってきます。

人間の感覚では、AIが質問を読み、内容を理解し、頭の中にある答えを取り出して返しているようにも見えます。

しかし、G検定の勉強を進めていくと、少なくとも技術的には、そのような説明では足りないことが分かってきます。

ChatGPTのような大規模言語モデルは、入力された文章をトークンと呼ばれる単位に分け、そこまでの文脈を条件として、次に続く可能性のあるトークンを予測します。

一つ出力したら、それまでの入力と自分が出力した内容を踏まえて、さらに次のトークンを生成する。

その処理を繰り返すことで、私たちには一続きの回答に見える文章が作られます。

つまり、ChatGPTは、どこかに保管されている完成済みの答えを探して、そのまま返しているわけではありません。

入力された問いと会話の文脈を手がかりにして、学習済みのモデルから、答えらしく見える文章を順番に生成しています。

普通の鏡が光を反射するのに対して、AIは入力をそのまま反射しているのではない。

入力を受け取り、学習済みのパターンを通して、像を組み立て直して返している。

そう考えると、AIは鏡だとしても、かなり変わった鏡です。

鏡を作っているのは、人間社会の蓄積である

では、その鏡は何から作られているのでしょうか。

私が最初に思い浮かべたのは、ビッグデータという言葉でした。

人間が書いた文章。
人間が記録した出来事。
人間が分類した知識。
人間が評価した表現。
人間社会の価値観や慣習、そして偏り。

生成AIの背景には、こうした人間社会の膨大な蓄積があります。

ただし、厳密には、AIが回答するたびに巨大なデータの山を直接検索して、そこから文章を取り出しているわけではありません。

大量のデータを使った学習によって、言葉や概念の関係がモデルのパラメータに反映され、その学習済みモデルが入力に応じて出力を生成します。

したがって、「ビッグデータが鏡である」という表現は、技術的には少し粗いのだと思います。

より正確に言えば、

人間社会が蓄積した大量のデータを材料として作られた学習済みモデルが、鏡のように働いている

ということになります。

それでも、比喩としては、私は「人間社会の蓄積という鏡」と考えたくなります。

AIが映しているのは、世界そのものではありません。

人間が観測し、言葉にし、記録として残した世界です。

記録されなかったものは、そこには十分に現れません。
多く記録されたものは、強く現れます。
人間社会に偏りがあれば、その偏りも材料に含まれます。

AIは神の視点から世界を見ているわけではありません。

人間社会が残したデータを、人間が作った技術で再構成している。

その意味で、AIの出力に映っているものの大部分は、人間社会そのものなのだと思います。

自分を鏡に映すのは「問い」である

しかし、鏡があるだけでは、自分の姿は映りません。

その鏡の前に立ち、光を当て、見る方向を決める必要があります。

AIの場合、それに相当するものが「問い」ではないかと思います。

狭い意味では、プロンプトです。

何を聞くのか。
どのような条件を示すのか。
誰に向けて説明させるのか。
何を重視し、何を除外するのか。

こうした入力の違いによって、出力は変わります。

しかし、問いはプロンプトの書き方だけではありません。

そもそも、何を問題だと思うのか。
どこに違和感を持つのか。
何と何を比べたいのか。
どの前提を疑うのか。
返ってきた内容を、どの物差しで評価するのか。

広い意味では、問いを立てる力は、洞察力に近いのかもしれません。

AIに条件をたくさん与えれば、必ずよい出力になるわけではありません。

条件同士がぶつかれば、文章は散らかります。
優先順位が曖昧なら、何を中心にすべきか分からなくなります。
盛り込みたい内容をすべて並べれば、同じ意味を何度も言い換える文章になることもあります。

これまでブログ記事をAIと一緒に作る中でも、私は何度か、

「意味が重複している」
「同じ場所を周回している」
「中心となる話が埋もれている」

と感じて、書き直してきました。

もちろん、それはモデルの限界でもあります。

しかし、AIの出力が粗いとき、そこには私の問いの粗さが映っていることもあります。

何を一番伝えたいのか。
何を削ってよいのか。
どこまでを今回の記事で扱うのか。

それを自分で整理できていなければ、AIが返す文章にも迷いが現れます。

AIが私の能力を評価しているわけではありません。

ただ、私が与えた問いや条件が生成の出発点になる以上、その輪郭が出力に反映されるのは当然なのだと思います。

問いが曖昧なら、返ってくる像も曖昧になる。

AIという鏡には、自分の知識だけでなく、自分がどこまで問いを整理できているかも映るようです。

長い文章ほど、問いを管理する力が映る

このことは、長い文章を作らせると、さらに分かりやすくなります。

AIに一度で一万字を書かせる場合と、千字ずつ十回に分けて書かせる場合では、同じ合計一万字でも結果が変わります。

一度に長く書かせれば、文章の流れや語調はつながりやすい一方で、後半になるほど重複や脱線が起きることがあります。

千字ずつ区切れば、人間が途中で、

「ここまでは採用する」
「この論点は重複している」
「次はこの話に進む」
「この前提は修正する」

と方向を整えられます。

ただし、分割すれば自動的によい文章になるわけではありません。

人間が全体の構造を管理できなければ、今度は小さな文章を十本つないだだけの、まとまりのないものになります。

AIは局所的な文章を作ることは得意です。

しかし、その文章全体で何を主張するのか。
各節にどのような役割を持たせるのか。
どこを残し、どこを捨てるのか。

そこは、人間が管理しなければなりません。

ここでも、AIという鏡には、利用する側の構成力や編集力が映ります。

AIが優秀かどうかだけではなく、使う人間が全体をどこまで見渡しているかによって、返ってくる像の形が変わるのです。

再構成が、新しい発見になることもある

AIの出力は、人間社会に蓄積されたデータをもとにした再構成です。

では、AIとの対話から、本当に新しい発見が生まれることはないのでしょうか。

私は、そうとも言い切れないと思っています。

AIが無から新しい真理を作り出した、という意味ではありません。

しかし、自分が投げた問いと、自分では結びつけていなかった言葉や考え方が、AIの出力の中で組み合わされることがあります。

その組合せを見て、

「自分が引っかかっていたのは、ここだったのか」
「この話とあの話は、こうつながるのか」
「最初の比喩は、ここが不十分だったのか」

と気づくことがあります。

前の記事で使った「AIは部下に似ている」という比喩も、最初から完成した考えだったわけではありません。

AIとの対話を続ける中で、

「部下のように扱うことと、本当の部下だと思うことは違う」

という限界が見えてきました。

そして、その先に、

「では、私はAIとの対話で何を見ているのだろう」

という今回の問いが生まれました。

AIが一人でこの問いを作ったわけではありません。

私一人で、最初からここまで整理できていたわけでもありません。

問いを投げ、出力を読み、違和感を返し、また問い直す。

その往復の中で、既存の断片が別の形に並び替えられ、私にとって新しい意味を持ったのだと思います。

再構成で終わるか。
新しい発見になるか。

その違いも、どのような問いを投げ、返ってきた像をどう読むかに左右されるのかもしれません。

AIは「生成する鏡」である

AIは、私の入力をそのまま映す鏡ではありません。

人間社会が蓄積した大量のデータを材料に作られたモデルが、私の問いと会話の文脈を条件として、次に続くトークンを順番に生成します。

そこに映るのは、

人間社会の言葉や知識。
人間社会が持つ価値観や偏り。
私が投げ込んだ問い。
私が示した条件と優先順位。
そして、その出力を読み取る私自身の構成力や判断力。

そう考えると、AIは単なる反射鏡ではありません。

人間社会の蓄積に、自分の問いを投げ込み、別の輪郭を持った像として返してくる「生成する鏡」

なのだと思います。

ただし、この鏡は、常に正しい像を返すわけではありません。

学習したデータに偏りがあれば、像も偏る可能性があります。
情報が足りなければ、存在しない部分をもっともらしく補ってしまうこともあります。

自然で整った像が返ってきても、それが事実であるとは限りません。

バイアスやハルシネーションという言葉は、こうした鏡の歪みを理解するために必要になるのだと思います。

そこは、これからもう少し考えてみたいところです。

今の私に言えるのは、AIとの対話で見ているものは、AIという人格の内面ではない、ということです。

そこに映っているのは、人間社会が残した膨大な痕跡です。
そして、その前に立ち、問いを投げている自分自身です。

AIは答えを授ける神託ではありません。

人間社会の蓄積という鏡に、自分がどのような問いを映すのか。
返ってきた像を、どこまで読み取り、疑い、組み直せるのか。

AIを使うということは、その鏡の性能だけでなく、鏡の前に立つ自分自身も問われることなのかもしれません。

G006_AIは「部下」に似ている。でも、本当に部下だと思ってはいけない

前の記事で、私はAIを使うことについて、こんな比喩で考えました。

AIという、ものすごく作業が速いが、常識・責任・現場感覚・事実確認が弱い部下を持つようなものではないか。

この比喩は、今でもある程度は有効だと思っています。

AIに仕事を切り出す。
目的や制約を伝える。
出力を確認する。
足りないところを直させる。
事実関係を確認する。
最終的な責任は人間が持つ。

こう考えると、AIを使う力は、単なるプロンプトの小技ではなく、部下に仕事を振り、成果物を確認する「中間管理職力」に近いのではないか。
前の記事では、そのようなことを書きました。

ただ、G検定の勉強を進めるうちに、この比喩に対して、少し強い違和感も覚えるようになりました。

それは、

AIを「部下のように扱う」ことと、AIを「本当に部下だと思う」ことは違う

ということです。

AIは、本当の部下ではない

当たり前ですが、AIは人間ではありません。

人格もありません。
意識もありません。
責任感もありません。
倫理的な迷いもありません。
現場で経験を積んだ感覚もありません。

自然な文章で返事をしてくれるので、つい「分かってくれている」ように感じることがあります。
しかし、それは人間が理解しているのと同じ意味ではないはずです。

ChatGPTのような生成AIは、会話形式で応答します。
「なるほど」と言います。
「重要な視点です」と言います。
「このように整理できます」と言います。

こうした言葉が返ってくると、こちらは相手に意図や理解や人格を読み込みたくなります。

けれども、会話が成立しているように見えることと、相手が人間のように理解していることは別です。

ここを取り違えると、AIを技術として理解するうえで危ういのではないかと思うようになりました。

「相棒」と「人格がある」は違う

機械に愛着を持つこと自体は、不自然ではありません。

たとえば、車やバイクが好きな人が、長年乗ったバイクを「相棒」と呼ぶことがあります。
癖を知っている。
調子の良し悪しが分かる。
手をかけてきた経験がある。
一緒に遠くまで走った記憶がある。

そういう機械に対して、人間が関係性のようなものを感じるのは、自然なことだと思います。

ただし、それは技術的にバイクに人格があるという意味ではありません。

一方で、自動給湯器が「お風呂が沸きました」と教えてくれたとしても、そこに人格があると本気で考える人は少ないと思います。
それは、人間の声に似た通知であって、機械的な応答です。

生成AIは、この中間にあるように見えるところが厄介です。

給湯器より、はるかに自然に返事をします。
バイクより、はるかに言葉が通じるように感じます。
しかし、人間ではありません。

愛着を持つことはあるかもしれません。
便利な相談相手のように使うこともあります。
それでも、技術として理解するなら、人格を想定してはいけないのだと思います。

生成AIは「人格があるように見えるUI」なのかもしれない

今の私には、生成AIは「人格がある存在」というより、人格があるように見える会話インターフェースを持ったシステムと捉える方がしっくりきます。

会話形式は、とても便利です。

文章を整える。
考えを壁打ちする。
論点を洗い出す。
言い換えを試す。
学習中の疑問をぶつける。

こうした作業では、会話できること自体が大きな利点です。

しかし、その便利さが、同時に錯覚を生みます。

人間は、自然な言葉で返されると、そこに理解を感じます。
丁寧な言葉で返されると、誠実さを感じます。
こちらの意図に沿った文章が出てくると、分かってくれているように思います。

でも、それは本当に「分かっている」のでしょうか。

少なくとも、実務で扱うときには、そこを冷静に分ける必要があると思います。

AIは、自然な言葉で返してくる。
しかし、その出力は機械的な処理の結果である。
だから、根拠や事実関係は人間が確認する。
最終的に使うかどうかも、人間が判断する。

この認識を持たないままAIを使うと、出力の自然さに引っ張られてしまう気がします。

前の記事の比喩は、撤回しない

では、前の記事の「AIは部下に似ている」という比喩は間違いだったのか。

今のところ、そうは思っていません。

ただし、限定が必要です。

AIを「部下のように扱う」という比喩は、仕事の振り方や責任構造を説明するには有効です。

AIに作業を任せる。
成果物を確認する。
必要なら修正を指示する。
最終責任は人間が持つ。

この意味では、たしかに「部下に仕事を振る上司」に近い部分があります。

しかし、AIを「本当に部下だと思う」のは違います。

部下であれば、経験があります。
状況をくみ取ります。
責任を感じます。
場合によっては、上司の指示がおかしいと疑うこともあります。
現場の空気や、人間関係や、制度の背景を踏まえて判断することもあります。

AIには、それがありません。

AIは、こちらの曖昧な指示に対しても、それらしい出力を返してしまいます。
不足している前提を、勝手に埋めることがあります。
根拠が弱くても、整った文章にしてしまうことがあります。

だからこそ、人間側が見なければならない。

「部下のように扱う」とは、AIに人格を見ることではありません。
むしろ、人格がないからこそ、こちらが責任を持って確認するという意味なのだと思います。

G検定の勉強で、比喩の危うさに気づく

G検定の勉強は、試験対策としてはまだ途中です。

用語も多いです。
分類も難しいです。
すぐに分かった気にはなれません。

ただ、勉強を進める中で、自分がAIをどう捉えているのかを点検する機会が増えました。

AIを魔法のように見るのも違う。
AIを人間のように見るのも違う。
AIをただの電卓やワープロと同じように見るのも、少し足りない。

自然な会話ができる。
しかし、人格はない。
高度な出力ができる。
しかし、責任は取らない。
便利に使える。
しかし、根拠確認は人間に残る。

このあたりの距離感を持つことが、AIを使う側には必要なのだと思います。

AIを人間扱いしないために、人間が勉強する

私は、AIを業務上の思考整理や文章確認、公表済み資料の論点整理、一般的な想定問答の洗い出しなどの補助として使うことがあります。

もちろん、職場の規則を守ることが前提です。
入力できる情報の範囲にも注意が必要です。
AIの出力は答えではなく、考えるための材料です。
最終的な判断と文書作成は、自分の責任で行います。

この前提は、前の記事から変わりません。

ただ、今回少し見えてきたのは、AIを安全に使うためには、AIを人間扱いしすぎないことも大事だということです。

会話できるからといって、人格があるわけではない。
丁寧に返してくれるからといって、責任感があるわけではない。
もっともらしい文章だからといって、事実確認が済んでいるわけではない。

AIを使う力とは、AIを人間のように扱う力ではなく、人間らしく見える出力を、機械の出力として冷静に扱う力なのかもしれません。

前の記事では、AIを使うには「中間管理職力」が必要だと考えました。

今回、その比喩にもう一つ条件を付け加えるなら、こうです。

AIは、部下のように仕事を振ることはできる。
しかし、本当の部下ではない。
だから、人間以上に、出力を疑い、確認し、責任を引き取る必要がある。

この距離感を忘れないためにも、もう少しG検定の勉強を続けてみようと思います。

G005_AI時代に必要なのは、プロンプト職人ではなく「中間管理職力」かもしれない

G検定の勉強を始めてから、AIについて考える時間が増えました。

私は、50代半ばの地方公共団体職員です。土木系の実務に長く携わってきましたが、情報工学の専門家ではありません。AIについても、専門家として語れる立場ではありません。

このブログは、あくまで個人の学習記録です。所属組織の見解ではありません。また、業務でAIを使う場合には職場の規則を遵守し、入力できる情報の範囲にも十分注意しています。AIの出力は答えではなく、考えるための材料です。最終的な判断と文書作成は、自分の責任で行うものだと考えています。

その前提で、最近、AIとの付き合い方について一つの比喩が頭に残っています。

それは、

AIという、ものすごく作業が速いが、常識・責任・現場感覚・事実確認が弱い部下を持った中間管理職になる

というものです。

この比喩は、今の私にはかなりしっくりきています。

プロンプト術だけでよいのか

世の中には、AIを使いこなすためのプロンプト術やテンプレートがたくさん出ています。

もちろん、有効なものはあると思います。
目的、前提条件、出力形式、制約条件を明確に書く。
役割を与える。
段階的に考えさせる。
複数案を出させる。
そうした工夫には、実際に役立つものがあります。

一方で、少し違和感もあります。

AIの進化が速すぎるからです。

一昔前には有効だった小手先のプロンプト技術が、モデルの性能向上によって、あまり意味を持たなくなることがあります。逆に、以前は難しかったことが、普通に頼むだけでできるようになっていることもあります。

画像生成、動画生成、音楽生成などでは、それぞれの分野でプロンプト技術が発達しているのだと思います。細かい指定の仕方や、モデルの癖を踏まえた表現もあるのでしょう。

ただ、AIの性能が上がるほど、本当に重要になるのは、「AIの癖を突く技術」よりも、何を作らせたいのかを判断できる力ではないかと思うようになりました。

絵を描かせるなら、プロンプトの小技だけでなく、構図、光、色、視線誘導、表情、演出を判断する力が必要になります。

文章を書かせるなら、読者、目的、論理構成、文体、誤解されやすい表現、反論されそうな点を見抜く力が必要になります。

土木や行政実務でも同じです。
AIに資料整理や論点抽出を手伝わせることはできるかもしれません。
しかし、制度、現場感覚、住民説明、法的根拠、リスク、最終判断は、人間側に残ります。

つまり、AIを使いこなすということは、単に「うまい指示文を書く」ことだけではないのだと思います。

AIは、ものすごく作業が速い

AIのすごいところは、作業が速いことです。

文章のたたき台を作る。
長い文章を整理する。
比較表の形にする。
想定問答を洗い出す。
アイデアを複数出す。
論点の抜けを指摘する。
言い換え案を出す。

こうした作業を、かなりの速度でこなします。

人間なら数十分かかる作業の入口を、数十秒で作ることがあります。
しかも、疲れたとも言いません。
機嫌も悪くなりません。
何度でもやり直します。

この点だけを見ると、非常に優秀です。

しかし、問題はここからです。

AIは、速い。
しかし、危うい。

常識が弱いことがあります。
責任を取りません。
現場感覚がありません。
事実確認を保証しません。
根拠が曖昧なまま、もっともらしい文章を出すことがあります。
指示が曖昧でも、それらしく空白を埋めてしまいます。

完全に間違っていれば、まだ気づきやすいかもしれません。
しかし、半分正しい。
もっともらしい。
文章としては整っている。
この状態が、むしろ怖いのだと思います。

AIは「部下」に似ている

そこで、AIを「道具」として見るだけでは少し足りないのではないか、と思うようになりました。

もちろん、AIは人間ではありません。意識も責任感もありません。ここでいう「部下」は、あくまで比喩です。

それでも、AIを使う感覚は、単なる電卓やワープロを使う感覚とは少し違います。

AIは、こちらの指示を受けて、一定の成果物を返してきます。
文章案、整理案、比較案、論点案、説明案。
それらは、人間の知的作業にかなり近い形をしています。

しかし、その成果物には、確認が必要です。
前提がずれていないか。
根拠があるか。
誤解を招かないか。
余計なことを書いていないか。
重要な論点を落としていないか。
公表できる範囲を超えていないか。

これは、かなり「部下の成果物を見る上司」に近い感覚です。

非常に作業は速い。
しかし、経験や常識や現場感覚が十分とは限らない。
こちらが明確に指示しないと、意図と違う方向に進むことがある。
そして、最終的な責任は、指示した側に残る。

そう考えると、AI時代に人間側に必要なのは、プロンプト職人になる力だけではなく、中間管理職力なのではないかと思います。

AIに仕事を振る力

中間管理職の仕事は、自分ですべての作業を抱え込むことではありません。

何を誰に任せるかを考える。
目的を伝える。
前提条件を整理する。
期限や制約を示す。
出てきた成果物を確認する。
足りない部分を指摘する。
必要ならやり直してもらう。
最後は、自分の責任で判断する。

AIを使うときも、これに近いことが求められるのだと思います。

何をAIに任せてよいのか。
何をAIに渡してはいけないのか。
目的、前提、制約、出力形式をどう伝えるのか。
AIの出力をどの観点でレビューするのか。
事実関係や根拠をどう確認するのか。
そのまま使わず、自分の責任でどう再構成するのか。
場合によっては、AIを使わないと判断できるのか。

これらは、単なる入力テクニックではありません。

仕事を切り出す力。
成果物を見る力。
リスクを見抜く力。
責任を引き取る力。

そうした、かなり実務的な力です。

「AIに任せる」と「AIに丸投げする」は違う

ここは、特に注意したいところです。

AIに任せることと、AIに丸投げすることは違います。

AIに任せるとは、作業の一部を切り出し、目的と条件を示し、出てきたものを確認することです。
AIに丸投げするとは、判断まで含めて放り投げることです。

この二つは、まったく違います。

実務では、特にこの違いが重要になると思います。

AIに文章のたたき台を作ってもらうことはあっても、その文章が適切かどうかは人間が見なければなりません。
AIに論点を洗い出してもらうことはあっても、その論点が本当に重要かどうかは人間が判断しなければなりません。
AIに想定問答の材料を出してもらうことはあっても、それが実際の説明に使えるかどうかは人間が確認しなければなりません。

特に行政実務では、根拠、手続き、説明責任、公開できる情報の範囲が重要になります。
AIの出力が自然な文章になっているからといって、それだけで使えるわけではありません。

むしろ、自然な文章になっているからこそ、危ないこともあります。

対象領域の理解は、むしろ重要になる

AIが進化すると、人間の専門性はいらなくなるのでしょうか。

今の私には、むしろ逆に見えます。

AIが速く作業するようになるほど、人間側には、対象領域を理解していることが求められます。

絵なら、絵の良し悪しを見抜く力。
文章なら、文章の目的や読者を踏まえて直す力。
行政実務なら、制度、根拠、現場感覚、説明責任を踏まえて判断する力。
創作なら、テーマ、人物、構成、読後感を見極める力。

AIは、それらしい案を出してくれます。
しかし、それが本当に良いかどうかは、対象領域を知らなければ判断できません。

「AIが作ってくれるから、勉強しなくてよい」のではない。
むしろ、「AIが大量に出してくるから、それを選び、直し、捨てるために勉強が必要になる」のだと思います。

これは、自分にとっても耳の痛い話です。

G検定の勉強をしていても、用語が多くて、分類がややこしくて、何度も迷子になります。
しかし、AIをただ便利に使うだけでなく、安全に、冷静に、責任を持って使うためには、こうした基礎的な理解が必要なのだと思います。

G検定は、AIの「免許」ではない

G検定に合格したからといって、AIの専門家になれるわけではありません。
AIシステムを実装できるようになるわけでもありません。
まして、AIを自由自在に操れる免許が手に入るわけでもないと思います。

ただ、AIという部下の性格を知るための基礎教養にはなるのではないかと思っています。

AIは、何が得意なのか。
何が苦手なのか。
どこで間違えやすいのか。
データの偏りはどのように問題になるのか。
評価指標は何を見ていて、何を見落とす可能性があるのか。
ハルシネーションとは何か。
説明可能性や法律・倫理は、なぜ重要なのか。

こうした言葉を少しずつ持つことで、AIとの付き合い方を、少し冷静に考えられるようになる気がします。

もちろん、まだ学習途中です。
分かったふりはできません。
公式テキストを読んでも、すぐに腑に落ちるところばかりではありません。

それでも、AIを使う側として、「これは便利だ」「これは怖い」と感じるだけではなく、その便利さや怖さを説明するための語彙を持ちたいと思っています。

AIを使う力とは、AIの作業を判断する力かもしれない

AI時代に必要なのは、AIに置き換えられない作業を探すことだけではないのだと思います。

もちろん、人間にしかできないことは何か、という問いは大事です。
しかし、それと同じくらい大事なのは、AIを使う人間として、AIの成果物をどう扱うかです。

AIに作業を切り出す。
目的を伝える。
出力を確認する。
足りないところを直させる。
事実関係を確認する。
最終的には、自分の責任で使うかどうかを判断する。

これは、まさに「ものすごく作業が速いが、常識・責任・現場感覚・事実確認が弱い部下」を持つ感覚に近いです。

部下に仕事を任せるには、任せる側にも力が要ります。
同じように、AIに仕事を任せるには、人間側にも力が要ります。

AIを使う力とは、AIに作業させる力だけではない。
AIの作業を判断する力なのではないか。

今のところ、私はそう考えています。

G検定の勉強は、試験勉強としてはまだ途中です。
ただ、こういうことを考えるきっかけにはなっています。

AIを怖がりすぎず、過信もしない。
便利な道具として使いながら、責任は人間が引き取る。

そのために、もう少し勉強を続けてみようと思います。

G004_AIの分類は「系統樹」ではなく「地図」として見ると楽になった話

G検定の勉強を進めていて、また少し分類で引っかかりました。

前回の記事では、公式テキストを第3章あたりまで読み進める中で、「木を見て森を見ず」の状態になり、ChatGPTにAI全体の俯瞰図を描いてもらったことを書きました。

そのときは、人工知能という大きな森の中に機械学習があり、その先にディープラーニングや生成AIがある、という大まかな地図を得た気がしました。

ただ、その後さらに用語を眺めていると、もう一つ混乱していたことに気づきました。

それは、分類軸の違う言葉を、同じ棚に並べようとしていたことです。

教師あり学習、教師なし学習、強化学習。
回帰、分類、クラスタリング、次元削減。
線形回帰、ロジスティック回帰、SVM、決定木、ランダムフォレスト、ブースティング。
ニューラルネットワーク、ディープラーニング。

こうした言葉が次々に出てくると、最初は、これらを一つのきれいな分類表に収めなければならないのだと思っていました。

たとえば、生物分類のようなものです。
界、門、綱、目、科、属、種のように、上から下へきれいに枝分かれしていく系統樹です。

ところが、その感覚で機械学習の用語を整理しようとすると、どうにも収まりが悪いのです。

教師あり学習と回帰は、同じ段に並ぶのか。
分類とロジスティック回帰は、どう違うのか。
SVMは分類なのか、手法なのか。
ディープラーニングは、教師あり学習や強化学習と同じ仲間なのか。

考えれば考えるほど、棚の中がぐちゃぐちゃになっていきました。

ここで、自分の中で少ししっくりくる比喩が出てきました。

AIや機械学習の分類は、生物分類というより、音楽ジャンルに近いのではないか。

音楽には、ロック、ジャズ、クラシック、J-POP、同人音楽などのジャンルがあります。
しかし、実際の音楽は、そんなにきれいに分かれていません。

ロックの要素が入ったJ-POPもあります。
ジャズの影響を受けたロックもあります。
クラシック的な構成を持ったゲーム音楽や同人音楽もあります。

では、ジャンル分けは無意味なのかというと、そうではありません。
ロックとジャズとクラシックの大まかな違いを知らなければ、音楽全体の見取り図がつかみにくくなります。

機械学習の分類も、これに近いのだと思います。

分類は、厳密な箱分けだけを目的にするものではない。
いま自分が何を見ているのかを見失わないための地図でもある。
そう考えると、少し楽になりました。

もう一段整理すると、機械学習の用語は、少なくとも次のような複数の軸で見ると分かりやすくなります。

 
機械学習の見取り図

1 学習の枠組み:どう学ぶか
├─ 教師あり学習
├─ 教師なし学習
└─ 強化学習

2 タスク:何をしたいか
├─ 回帰:数値を予測する
├─ 分類:カテゴリを予測する
├─ クラスタリング:似たものをまとめる
├─ 次元削減:情報を圧縮・整理する
├─ 異常検知:通常と違うものを見つける
└─ トピック抽出など

3 手法・モデル:何で解くか
├─ 線形回帰
├─ ロジスティック回帰
├─ 決定木
├─ SVM
├─ ランダムフォレスト
├─ ブースティング
├─ ニューラルネットワーク
└─ ディープラーニング

4 応用領域:どこに使うか
├─ 画像認識
├─ 音声認識
├─ 自然言語処理
├─ 推薦システム
├─ 需要予測
└─ 異常検知など
 

これは、厳密な学術的分類表というより、私が学習中に迷子にならないための見取り図です。
ただ、この整理をすると、かなり頭の中がすっきりしました。

まず、教師あり学習、教師なし学習、強化学習は、「どう学ぶか」という枠組みです。

教師あり学習は、正解データを使って学ぶ。
教師なし学習は、正解ラベルがないデータから構造を見つける。
強化学習は、報酬を手がかりに、よりよい行動を学ぶ。

これは、学び方の違いです。

一方で、回帰、分類、クラスタリング、次元削減などは、「何をしたいか」というタスクの違いです。

数値を予測したいなら回帰。
カテゴリを予測したいなら分類。
似たもの同士をまとめたいならクラスタリング。
複雑な情報を扱いやすく整理したいなら次元削減。

これは、問題の種類です。

さらに、線形回帰、ロジスティック回帰、決定木、SVM、ランダムフォレスト、ブースティング、ニューラルネットワーク、ディープラーニングなどは、「何で解くか」という手法やモデルの側にあります。

つまり、教師あり学習、分類、SVM、画像認識は、同じ棚に並べる言葉ではありません。

たとえば、ある問題について、

「教師あり学習の枠組みで」
「分類というタスクを」
「SVMやランダムフォレストなどの手法で解き」
「画像認識に応用する」

というように、複数の軸を組み合わせて考えるものなのだと思います。

この見方をすると、ディープラーニングの位置づけも少し見えてきます。

前回の俯瞰図では、機械学習の下に、教師あり学習、教師なし学習、強化学習、ディープラーニングを並べるような形で整理しました。
あの図は、迷子になっていた私には非常に役に立ちました。

ただ、さらに考えてみると、あの図も「厳密な分類表」というより、最初の簡易地図でした。

とくにディープラーニングの位置づけは、教師あり学習や強化学習と同じ棚に置くより、さまざまな学習の枠組みの中で使われる強力な手法群と見た方が、私にはしっくりきます。

ディープラーニングは、機械学習の一部であり、ニューラルネットワークを発展させたモデル群として見ると分かりやすい。
そして、それは教師あり学習の中でも使われますし、教師なし学習的な使い方や、強化学習との組み合わせでも使われます。

つまり、ディープラーニングは「どう学ぶか」という枠組みそのものというより、「何で解くか」という手法・モデルの側に近いものとして捉えた方が、今の私には腑に落ちました。

もちろん、実際にはもっと複雑なのだと思います。
用語によっては、タスクにも見えるし、応用領域にも見えるものがあります。

たとえば、異常検知は、タスクとしても出てきますし、応用領域としても出てきます。
「通常と違うものを見つける」という意味ではタスクですが、製造、金融、防災、システム監視などで使われる場合には応用領域のようにも見えます。

このあたりも、音楽ジャンルと似ています。

ロックなのか、J-POPなのか、アニメソングなのか、同人音楽なのか。
一つの曲が、複数のラベルを持つことがあります。

機械学習の用語も、一つの言葉を一つの箱に閉じ込めようとすると苦しくなる。
むしろ、どの軸から見ているのかを意識することが大事なのだと感じました。

今回の気づきは、私にとってかなり大きいものでした。

G検定の勉強を始めたばかりの頃は、分類を暗記項目のように見ていました。

この用語はどこに入るのか。
これは上位概念なのか、下位概念なのか。
どの箱に入れれば正解なのか。

もちろん、試験勉強として、用語の意味や位置づけを正確に押さえることは必要です。
そこを曖昧にしてよいとは思っていません。

ただ、分類は、暗記するためだけのものではありません。
AI全体の地図を持つためのものでもあります。

どう学ぶか。
何をしたいか。
何で解くか。
どこに使うか。

この軸を分けて見るだけで、かなり迷子になりにくくなりました。

まだ理解は浅いです。
これから第4章以降に進めば、ディープラーニングや生成AIの話がさらに出てくるはずです。
そのとき、また別のところで混乱すると思います。

それでも、少しだけ足場ができました。

前回は、AIという森を歩くための大きな地図を描いてもらいました。
今回は、その地図をもう少し分解して、「複数の分類軸」として見直したことになります。

木を見て森を見ず、になりかけていました。
けれども、分類を「厳密な系統樹」ではなく「迷子にならないための地図」として見直すことで、次の章へ進みやすくなった気がします。

とりあえず今は、この地図を持って、もう少し先まで歩いてみようと思います。

G003_木を見て森を見失ったので、AIに森の地図を描いてもらった

G検定の公式テキストを、いま第3章あたりまで読み進めています。

 

まだ1周目なので、理解が深いとはまったく言えません。
とりあえず、全体をさらっとなぞっている途中です。

 

ところが、このあたりで少しモチベーションが下がってきました。

 

理由は単純です。
歴史や分類、用語の整理が、少し無味乾燥な暗記事項のように見えてきたからです。

 

もちろん、大事なことなのだろうとは思います。
ただ、読みながらだんだん、

「これは、ただ覚えるしかないのかな」

という気分になってきました。

 

しかも、途中で知っている言葉が出てくると、ついそこに反応してしまいます。

たとえば、チューリング試験。
あるいは、ブルートフォース。

 

知っている言葉が出てくると、少し嬉しくなります。
そして、そこを起点に横展開して考えたくなります。

 

最初は、それで理解が広がるような気がしました。
けれども、実際には、横展開というよりタコつぼにハマっていました。

一つの単語に引っかかる。
その周辺を調べる。
さらに別の話に飛ぶ。
気がつくと、いま自分がAI全体のどこを歩いているのか分からなくなる。

まさに、木を見て森を見ず、です。

 

そこで一度、ChatGPTに相談してみました。

テキストの内容を要約してもらうためではありません。
問題の解き方を教えてもらうためでもありません。
自分がいま見失っている「森の形」を、ざっくり示してもらいたかったのです。

すると、かなり単純化した形ではありますが、次のような俯瞰図を示してくれました。

 
 
人工知能 AI
├─ 記号処理AI・探索・推論
│ ├─ ルールベース
│ ├─ エキスパートシステム
│ └─ 知識表現・推論

└─ 機械学習
├─ 教師あり学習
│ ├─ 分類
│ └─ 回帰
├─ 教師なし学習
│ ├─ クラスタリング
│ └─ 次元削減
├─ 強化学習
│ └─ 報酬に基づく行動学習

└─ ディープラーニング
├─ ニューラルネットワーク
├─ CNN
├─ RNN
├─ Transformer
└─ 生成AI
 

もちろん、これは厳密な学術分類というより、私が迷子にならないための簡易地図です。
細かく見れば、もっと正確に整理すべき点もあるのだと思います。

 

それでも、この図は私にはかなり効きました。

まず、人工知能という大きな枠の中に、機械学習がある。
その機械学習の中に、教師あり学習、教師なし学習、強化学習がある。
さらに、ディープラーニングは機械学習の中に位置づいている。
そして、Transformerや生成AIは、いきなり空から降ってきたものではなく、その流れの先にある。

 

そう見えた瞬間に、少し気が楽になりました。

それまで無味乾燥な歴史や分類の丸暗記に見えていたものが、実は構造の話だったのだと分かったからです。

いま読んでいる部分は、生成AIやChatGPTを理解するための前置きでもある。
後半に出てくる話を理解するための、基礎工事でもある。
そう考えると、急に意味が見えてきました。

私は、つい目の前の言葉に引っかかります。
知っている単語が出てくると、そこから自分なりに考えを広げたくなります。
それ自体は、悪いことではないと思います。

ただし、1周目からそれをやりすぎると、すぐに迷子になります。

今は、細部を完璧に理解する段階ではなく、まず全体の地形をつかむ段階なのかもしれません。

 

山に入るときも、目の前の木や石ばかり見ていると、現在地を見失います。
たまには地図を広げて、尾根や谷の位置を確認する必要があります。

G検定の勉強も、たぶん同じです。

今回、ChatGPTは答えをくれたというより、地図を描く手伝いをしてくれました。
従来型の勉強でいえば、先生や、気の利く友人が、

「いま見ているのは、このあたりの話ですよ」

と指さしてくれたような感覚です。

もちろん、AIの出力をそのまま正解として扱うわけではありません。
最終的には、自分でテキストを読み、自分で確認し、自分の理解にしていく必要があります。

ただ、自分一人では気づきにくい視点を示してくれることはあります。
今回の俯瞰図は、まさにそういう使い方でした。

 

まだまだ理解は浅いです。

用語も、歴史も、分類も、これから何度も戻って確認することになると思います。

それでも、少しだけ見え方が変わりました。

退屈な暗記に見えていたものが、実はAIという森を歩くための地図だった。
そう思えただけで、もう少し進んでみようという気持ちになりました。

とりあえず、1周目を最後まで走ってみます。

そこで何が見えるのか。
また迷子になるのか。
それとも、少しだけ森の形が見えてくるのか。

感じたことは、また書いてみようと思います。

G002_人工知能とは何かを、人工知能に聞いてみた

検定の勉強を始めて、最初に出てくる大きな問いがあります。

 

人工知能とは何か。

 

人工知能を学ぶ検定なのだから、まず人工知能の定義から始まる。
それは当然といえば当然です。

ところが、ここでいきなり面白い話に出会います。

人工知能の定義は、専門家の間でも一つに定まっているわけではない、というのです。

人工知能の検定で、人工知能の定義は定まっていない。
これは、なかなか味わい深い話です。

もちろん、「何も分かっていない」という意味ではありません。
人間のように考える機械なのか。
人間の知的作業を一部代替する仕組みなのか。
予測や分類、認識、生成を行うシステムなのか。
汎用人工知能まで含めるのか、特定の目的に使われる応用人工知能を指すのか。

どこに焦点を当てるかによって、答え方が変わります。

 

そこで、人工知能と呼ばれるChatGPTに、こう聞いてみたのです。

「人工知能とは何でしょうか?」

すると、きちんとした答えが返ってきました。
ただし、その答えは、テキストに掲載されているChatGPTの回答とは同じではありませんでした。

もちろん、どちらかが間違っているという話ではありません。
切り口が違うのです。

ある答えでは、汎用人工知能と応用人工知能の違いが説明されます。
別の答えでは、人間の知的作業に似た出力を生成する機械的なシステムとして説明されます。
また別の文脈では、人間の判断を補助する道具として説明されるかもしれません。

同じ問いに対して、同じ文章が必ず返ってくるわけではない。
これ自体が、生成AIらしいところだと感じました。

辞書であれば、定義は基本的に固定されています。
しかし、ChatGPTは辞書そのものではありません。
問い方や文脈に応じて、それらしい説明を組み立てます。

これは便利です。
相手の知識や関心に合わせて、説明の仕方を変えてくれるからです。

しかし、同時に怖さもあります。
答えが毎回少し違うということは、受け取る側が、それをそのまま正解として扱えないということでもあるからです。

 

人工知能とは何か。

この問いに対して、一つの完璧な答えを暗記することだけが重要なのではないのだと思います。
むしろ大事なのは、人工知能という言葉が、かなり広い範囲を指して使われていると知ることです。

研究の文脈で使われるAI。
行政や企業の実務で使われるAI。
法律や規制の対象として整理されるAI。
ニュースや広告で使われるAI。
そして、私たちが日常的に触る生成AI。

同じ「AI」という言葉でも、見ているものが少しずつ違います。

実務者として考えると、ここはかなり重要です。

AIという言葉を使った瞬間に、何か高度で客観的で万能なものを想像してしまうことがあります。

けれども実際には、特定の目的に応じて作られた仕組みであり、得意なこともあれば、苦手なこともあります。
出力がもっともらしく見えても、それが根拠を持った正解とは限りません。

だから、私にとっての問いは、少し変わってきます。

 

人工知能とは何か。

この問いは大事です。
しかし、それと同じくらい大事なのは、

自分はいま、何を人工知能と呼んでいるのか。
その出力を、答えとして扱うのか、考える材料として扱うのか。
どこまで任せて、どこから自分で確認するのか。

という問いなのだと思います。

 

G検定の勉強は、単に用語を覚える作業だと思っていました。
もちろん、試験ですから覚えるべきことはあります。

けれども、最初の「人工知能とは何か」というところで、いきなり立ち止まることになりました。

定義が一つに定まらないものを、どう理解し、どう使い、どう疑うのか。

もしかすると、AIを学ぶということは、最初からそういう作業なのかもしれません。

AIを疑うことと、AIを使うことは矛盾しません。
むしろ、疑いながら使うために、少しずつ学んでいるのだと思います。

G001_50代半ばの土木系公務員が、G検定を受けることにしました

※本記事は、個人の学習記録であり、所属組織の見解を示すものではありません。

 

2026年5月5日。
今日、G検定を受ける志を立てました。

受検日は、2026年7月3日(金)または7月4日(土)の予定です。まだ申し込み前ですが、ここから約2か月、帰宅後や週末の時間を使って、少しずつ勉強していこうと思います。

もちろん、受けるからには合格したいです。受検料もかかりますし、時間も使います。

ただ、今回の目的は資格を取ることだけではありません。G検定の勉強を通じて、AIについて体系的に学び直したいと考えています。

私は、50代半ばの地方公共団体職員です。分野でいえば土木系で、情報工学の専門家ではありません。プログラミングや情報技術を専門的に学んできたわけでもなく、自分にとってはかなり遠い分野です。

一方で、AIはもう仕事の近くに来ています。

公表済みの事業説明資料を見直す際の論点整理や、一般的な想定問答の洗い出しなどで、AIを補助的に使うことがあります。こちらに一定の材料があり、それを整理したり、別の角度から見直したりする場面では、かなり有効だと感じています。

自分だけでは見落としそうな論点を拾ってくれることもありますし、難しい行政用語を少し柔らかく言い換えるヒントになることもあります。

もちろん、AIを使う際には職場の規則を遵守しています。扱う情報や利用方法には十分注意し、AIの出力は、あくまで考えるための材料として使っています。最終的な判断と文書作成は、自分の責任で行うという前提です。

AIは便利です。

しかし、その便利さと怖さは同時に来ます。

AIは、とても自然で整った文章を返します。しかも、かなり自信がありそうに見えます。ところが、その内容が正しいとは限りません。

もっともらしいけれど間違っている。
根拠がはっきりしない。
制度や事実関係が微妙にずれている。

文章として整っていることと、内容が正しいことは別です。見た目がきれいだからこそ、つい納得しそうになります。

行政の仕事で、それをそのまま使うことはできません。事実関係や根拠を確認し、必要な内容へ整えるのは自分です。

そう考えると、AIを使う側にも、一定の理解が必要になります。

AIは何をしているのか。
なぜ間違えるのか。
どこまで信用してよいのか。
どのような場面で有効で、どのような場面では危ないのか。
「精度が高い」とは、何を意味するのか。
AIの出力に偏りが生じるとは、どういうことなのか。

こうしたことを、何となくの経験則ではなく、もう少し体系的に理解したいと思いました。

そこで、G検定です。

G検定は、日本ディープラーニング協会が実施する検定です。機械学習やディープラーニングの基礎だけでなく、法律・倫理、AIの社会実装、生成AIに関連する内容なども扱います。

この範囲が、今回の自分の問題意識と合っています。

私は、AIのエンジニアになりたいわけではありません。

知りたいのは、AIを使う側としての基礎です。

AIは何が得意で、何が不得意なのか。
出力をどう受け止めるべきなのか。
安全かつ有効に使うには、どのような判断軸が必要なのか。

その意味で、G検定はちょうどよい入口ではないかと思いました。

昨年度は、職場の自己研鑽メニューでITパスポートのオンライン研修も受講しました。検定は受けていませんが、IT全般の共通言語を持つための入口として有用だと思います。

ただ、今回の関心は、IT全般というよりAIそのものにあります。AIを安全に使うために、その仕組みや限界を理解したい。そう考えると、今の自分にはG検定の方が合っているように感じました。

もちろん、G検定に合格したからといって、急にAIの専門家になれるわけではありません。AIを実装するエンジニアの資格でも、深い技術力を証明するものでもないでしょう。

それでも、AIを使う側が、最低限の構造や限界を理解するための足場にはなると思います。

自分には、その足場が必要です。

勉強は、まず公式テキストを読み、全体像をつかむところから始めます。どのような論点があり、どこが自分にとって遠いのかを把握したうえで、問題集に進むつもりです。

問題演習を通じて見つけたいのは、単に知らないことだけではありません。

知っていたつもりなのに間違えたこと。
用語を混同していたこと。
条件や前提を読み落としていたこと。

そうした「分かったつもり」の部分にこそ、学ぶ価値があるのだと思います。

特に気になっているのは、「半分正しい」説明です。

まったく間違っている説明は、比較的見抜きやすい。
しかし、一部は正しいけれど、条件が抜けている。
一般論としては正しいが、この場面には当てはまらない。
文章としては自然だが、厳密には意味が違う。

こういうものが、実務では一番危ないと感じます。

AIの出力にも、まさに同じ怖さがあります。完全におかしな答えなら気づけますが、半分正しく、半分怪しい答えは、注意しないと見逃します。

これから、こうした気づきをブログの記事にしていこうと思います。

ただし、公式テキストの要約を書くつもりはありません。問題集の問題や選択肢を紹介し、解説するつもりもありません。著作権の問題もありますし、それでは自分の学習記録にはならないからです。

書きたいのは、学習中に自分がどこで引っかかったかです。

この用語は、分かったようで分からない。
この概念は、実務者の目にはこう見える。
この論点は、行政の説明責任やAI利用の怖さにつながりそうだ。
自分の理解はまだ不十分かもしれないが、今の段階ではこう見えている。

そうしたことを、個人の学習ノートとして書いていくつもりです。

きれいに整った連載にはならないと思います。帰宅後や週末の範囲で、勉強中に引っかかったトピックを、五月雨式に書いていくことになるはずです。

まずは、自分が後で読み返すための記録です。

ただ、同じようにG検定を受けようとしている人、AIに関心がある公務員、情報系ではないけれどAIを使う機会が増えている実務者にとっても、多少は参考になるかもしれません。

少なくとも、

情報系ではない実務者が、G検定の勉強でどこに引っかかり、何を考えたのか

を仮想体験してもらうことはできると思います。

世の中には、プロンプトの作り方、生成AIの活用術、業務効率化のテクニック、最新ツールの紹介など、AIに関する情報があふれています。

もちろん、それらも役に立ちます。

ただ、自分が今ほしいのは、もう少し基礎に近い理解です。

AIを業務で使う者として、何をしている技術なのかを、自分の言葉で説明できるようになること。
便利さに助けられながらも、その怖さを忘れないこと。
もっともらしい答えに流されず、根拠と条件を確認する姿勢を持つこと。

G検定を、そのためのペースメーカーとして使ってみようと思います。